ヤリを投げるのと、投げられるヤリと…
2002年8月27日ふと、”なげやり”という言葉について考えてみた。
きっと、ヒトがヤリを投げるときは、
「まずは、投げてみますかー!」
「たぶん、このぐらいの角度でしょ!?」
「とりあえず、獲物に当たればいいや!」
・・・
「ん〜、当たんなくても、また投げればいいじゃん?」
ってな、感じの気持ちなのかな?
いや、”投げ”という言葉が”ヤリ”より先にあるんだから、
”投げられてるヤリ”自身の気持ちなのかもしれない。
こっちだと、
「あ〜、俺はどこに飛んでくんだろ」
「どこに当たるんだろ、痛いのかなぁ」
って感じの気持ちなんだろか。
「地と図の指向」なんて、どっかの偉人さんが言ってた。
”地”も”図”も、
どっちも自分で都合がいいように考えればいいワケだし。
まして、指向なんて、
志向して、思考して、試行して、施工すれば、
いい訳なんだし。
ものの考え方なんてなんとでもなるよ。
空気を深く吸って、ちょっとだけ自賛して、未来へと進もう!
−−−
俺は、ヤリを投げたくない。
もちろん、ヤリにもなりたくない。
きっと、ヒトがヤリを投げるときは、
「まずは、投げてみますかー!」
「たぶん、このぐらいの角度でしょ!?」
「とりあえず、獲物に当たればいいや!」
・・・
「ん〜、当たんなくても、また投げればいいじゃん?」
ってな、感じの気持ちなのかな?
いや、”投げ”という言葉が”ヤリ”より先にあるんだから、
”投げられてるヤリ”自身の気持ちなのかもしれない。
こっちだと、
「あ〜、俺はどこに飛んでくんだろ」
「どこに当たるんだろ、痛いのかなぁ」
って感じの気持ちなんだろか。
「地と図の指向」なんて、どっかの偉人さんが言ってた。
”地”も”図”も、
どっちも自分で都合がいいように考えればいいワケだし。
まして、指向なんて、
志向して、思考して、試行して、施工すれば、
いい訳なんだし。
ものの考え方なんてなんとでもなるよ。
空気を深く吸って、ちょっとだけ自賛して、未来へと進もう!
−−−
俺は、ヤリを投げたくない。
もちろん、ヤリにもなりたくない。
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